こんにちは。エリート主義分科会所属の橘高です。今回は今まで本会議に向けて進めてきた準備の内容についてご報告します。
私たちエリート主義分科会は、「日中両社会におけるエリートと社会の関わりを考察し、北京大生との対話を通じて自らが社会に果たせる役割を考える」ということを目標に議論を進めてきました。もちろん文献やインターネットから得られる客観的なデータも土台としますが、それ以上に北京大生との生のやり取りの中で自らの将来を考えていく、より一人称視点を重視した本会議にしていきたいと思っています。
弊団体のような国際的な学生会議に参加することの一番の魅力はやはり、自分が当然だと思っていたことが他国では全く事情が異なっていたことを発見する瞬間です。事前準備の段階ですでに一つ、こうした大きな発見がありました。それは、北京大のメンバーが「自らをエリートだと全く自認していない」のに加え、「自分たちがエリートであると中国社会から認識されていると必ずしも思わない」ということでした。東大メンバーの中で、「日本社会から自分たちがエリートであると認識されていると思う」という点においては全員のコンセンサスが取れていたということを考えると、日中で興味深い差異があることになります。すなわち、東大メンバーが「比較的恵まれた教育を享受している」ことが「エリート」になるためのほとんど必要かつ十分条件であると考えるのに対して、北京大メンバーにとって「比較的恵まれた教育を享受している」ことは「エリート」になるための必要条件にすらならないかもしれない、ということです。
北京大メンバーの「自分をエリートだと自認しない理由」で印象的だったのが、「自分の家は特に政治的な力も経済的な力もあるわけではないから」というものでした。そうすると、中国での「エリート」の構成要件が「恵まれた教育」というだけでは不十分であり、「エリート」という言葉の定義も考え直す必要が出てくることになります。もしかしたら、「エリート」という言葉を使うこと自体が、「自分たちの社会における役割を考える」という議論の目的に照らしてあまり適切とは言えないかもしれません。
本会議前の発見を通して日中両国内での教育や経済、政治的パワーの関係性を一度洗い直す機会が生まれたことで、現在は再び客観的・定量的なデータに当たっています。価値観ベースの議論と、客観的な理論ベースの議論の双方を上手く行き来しながら本会議に向けて準備が進んでいると考えています。議論しているうちに当初予想していた方向性とは大きく変わっていくことも学生会議での大きな魅力です。北京セッションでの議論で北京大生のどんな生の声が聞けるのか、楽しみでなりません。
北京大メンバーの「自分をエリートだと自認しない理由」で印象的だったのが、「自分の家は特に政治的な力も経済的な力もあるわけではないから」というものでした。そうすると、中国での「エリート」の構成要件が「恵まれた教育」というだけでは不十分であり、「エリート」という言葉の定義も考え直す必要が出てくることになります。もしかしたら、「エリート」という言葉を使うこと自体が、「自分たちの社会における役割を考える」という議論の目的に照らしてあまり適切とは言えないかもしれません。
本会議前の発見を通して日中両国内での教育や経済、政治的パワーの関係性を一度洗い直す機会が生まれたことで、現在は再び客観的・定量的なデータに当たっています。価値観ベースの議論と、客観的な理論ベースの議論の双方を上手く行き来しながら本会議に向けて準備が進んでいると考えています。議論しているうちに当初予想していた方向性とは大きく変わっていくことも学生会議での大きな魅力です。北京セッションでの議論で北京大生のどんな生の声が聞けるのか、楽しみでなりません。
教養学部3年 橘高秀